男らしく、女らしく。
小さい頃からそう言われて育った人の方が多いはず。
最近は「おねぇマン」とか言ってテレビ番組にまでなってるけど
昔からおカマさんとかゲイとかホモとかいろんな呼び方があって
どうもそれらが「差別的」だとか「侮蔑(ぶべつ)的」とか言う人もいるらしい。
でも昼間から堂々とテレビで大笑いできるようになったのは
彼ら(彼女達?)元気なおカマさんたちの活躍のおかげなんだろうね。
もちろん深刻に悩んでいる人にとってはその悪ふざけぶりが腹立たしく見えるかもしれない。

僕が以前このブログで書いた「あやや」のモノマネの件で
何千万円もかけて全身整形して綺麗に見せている「はるな愛」はいいけど
「前田健」はキタナイから絶対認めない!と言った「あやや」を何て嫌なオンナだと思った。
それでなくても性的マイノリティとして様々なイジメにあってきた彼に向かって
電波に乗せてそこまでひどい言葉を吐き捨てる「あやや」様って一体・・。
だってどう見ても顔つきや表情なんかマエケンの方が似てる。
それよりも名指しで「キタナイ」と言われたマエケンの気持ちを考えろと。
「あやや」の事が大好きで、ずっとずっとモノマネしてて
「あやや」が低迷してた頃には逆に人気を底上げしてくれたマエケンに
「キタナイ」とか「ミトメナイ」とかこらワレ、何様やねん!と
ま、「あやや」のファンが見たら怒るんだろうけど。

昨日の深夜TV(NHK!)で性同一性障害の人たちのイベントがあって
マエケンが実に堂々とそして頼もしく、悩める彼らを励ましていた。
何だか嬉しかった。マエケン元気そうじゃん、活躍してるじゃんって。
出演者も、観客も、会場のボランティアスタッフも
多くの人が自分の性別について悩んで、苦しんできた人たちだった。
厳密に言うと性同一性障害と、オカマさんと、ゲイやホモとはみんな違うと思う。
でも昔はただの変態扱いだったのがしっかりと医学的に認知されたのは
何とも大きな進歩ではないだろうか。それでもまだ差別や偏見はあるにしても。
随分昔の話だけど有名な女性歌手と女性タレントさんがレズだと報道されて
当事はそれはとんでもない事だったので二人とも芸能界から姿を消した。
いや、そうせざるを得なかったのだろう。
僕はその人の歌が大好きだったけど、今はどうしておられるのだろうか。
ヒットしたその歌のタイトルは
「いいじゃないの幸せならば」
あえてココではお名前には触れません、今は芸能人じゃないので。
気になる方はこの曲名で検索して一度聴いてみて下さい。
本当に美しい、切ない、心に染みる歌です。キレイな歌声です。

今や芸能界にも随分沢山の「組合員」が増えたようだ。
しかし僕が気になるのは以前「オーラの泉」の中で美輪明宏氏が
「あいつらだけは絶対に許さない、認めない!」と怒りに震えて発言
「オカマ」という差別用語を連呼してテレビに出続けるのが許せないという
自分が若い頃からどれだけそう言われないように戦ってきたか
世間から蔑まれない様に頑張って今の地位や名声を得たかを語っていた。
その「あいつら」は世間では「おすぎとピーコ」だというのが定説。
仮にもしそうだとしても何故美輪氏はそこまで怒るのか、執着するのか。
他に放送では言えない事情があるのだとしたらそれは知らない、仕方ない。
しかしいつまでも昔の屈辱や苦労、差別を「恨み、妬み、憎み」続ける
美輪氏の底深い負のエネルギーはあの番組にはそぐわないものだった。
江原さんの説く「執着心を捨てて身に起こる全てを受け入れる」という事に
真っ向から反していると言えるその激高ぶりは、神がかりでも霊的でもなく
「あぁ、やっぱりこの人は普通のヒトなんだな」と、良い意味で安心した。
(そのとき僕の頭に浮かんだのはあの細○数子センセだった)
江原さん、本当にお疲れ様です。太一君、キミも素晴らしい人格者だ。

差別を受けるという事、それによって悩み苦しむという事。
スピリチュアルな世界観から言えば・・・
それらは全て選ばれて苦難の道を歩んでいるという事。
江原さんの言葉を借りればこの世に生まれてくる時に自分で望んだ事。
大きな障害を持って生まれてくる事も、難しい病気と闘う運命も
幼くして亡くなる命も、また幼い子供を失くす親の運命も。
自分でそういうコースを選択し、そして記憶を消して生まれて来るのだと。
だとしたら・・・男の体に女の子の精神、女の体に男の子の精神で
この世に生まれて来た人たちはどういう「修行」目的があるのかと考える。

でも・・・そもそも霊的な世界には男とか女とか、性別がないんだそうで。
性別があるのはあくまでこの世で繁殖するのに都合が良いだけの事。
男が女を、女が男を好きになって愛し合って子供が生まれて・・・・
でもそういう「この世の都合」を持たずして生まれて来た彼らは
ひょっとしたらとても崇高な魂なんじゃないかと思う。
それはこの世に生まれてくる前の姿に近いのかもしれない
あるいはそれは「天使」に近いのかもしれない。
生み、育て、増やすという増殖のカルマを免除されてもっと究極の美しさ、
性差を超えたニンゲンとしての愛の形を理解しているのではないか。
美輪明宏氏もその中に入るだろうしピーター(池畑慎之介)さんもしかり、
美川憲一さん、お花の假屋崎(かりやざき)省吾さん、美容家のIKKOさん、
はるな愛さんもマエケンさんも、おすぎとぴーこも(?)
そして多くの美容師、スタイリスト、デザイナー、様々な分野のアーティスト。
芸能、芸術や美術や美しいものに係わる人たちに多いのは偶然ではなく
そういう役割を持って生まれてきたんじゃないかと思ってしまう。

それは決して自分自身の美しさだけではなく無く、何かを創造する事で
周りの人たちに美しいものを提供したり、美しい気持ちにさせたりする。
そうした事で彼ら彼女たちは男と女という便宜上作られた2分割の世界を
簡単に超越してあるいは癒合して目の前にポンと置いて見せてくれる。
それは男だからとか女だからとかの理由付けの必要など無い、
「良いものは良い」「キレイなものはキレイ」「美味しいものは美味しい」
なんとシンプルな価値基準。
なるほど「可愛いうさぎは誰が見ても可愛い」、男が見ても女が見ても。
そう考えると僕にも当てはまる節が無いわけではなく。
テレビや映画を見ていて随分前に(たぶん20年以上前に)気付いたのだが
僕はキレイな女優さんや可愛いモデルさん、アイドル歌手の女の子を見て
単純にキレイ、カワイイ、ダイスキ・・・と思うけど
それと同じように男前の俳優さんやカッコイイ男性歌手を見ても
同じようにキレイとかカッコイイと、その美しさを賞賛できる。
それって同じことなんじゃないかなと。
性差を超えてキレイなものはキレイ、良いものは良いと思う事は・・・
僕はひょっとしたら何かのきっかけでそういう垣根を越えてしまうんじゃないか
自分に対してそんな頼りなさを憶えた事があったっけ。

でもそれは決してセクシャルな、下世話な下半身のハナシではなくて
男らしくとか女らしくとかそういう決め付けを自分自身に持たせずに
今はこんな坊主頭でヒゲを生やして1年中サンダルで「いかにもオッサン」だが
中学生の頃を振り返ればおしゃれや髪型に気を使って軽い潔癖症だったかも。

そうなんだ、きっとそうなんだと思う。
みんなどこかにそういうスイッチは持ってる。
ほとんどの人は一生そのスイッチの存在すら知らずに男として女として。
そして一握りの人はそのスイッチに気が付いても何とか押さずに生きていく。
(押さないように必死に耐えている人もいるだろう)
最後に限られた少数の人は生まれてから自動的にスイッチが入った人。
そのスイッチは本来の姿を取り戻す為のもの。
男も女も無くキレイなものはキレイ好きなものは好き・・・そういう理屈で言うと
そうか、「あやや」様はそういう事なのかと。実は奥が深かったりして?
マエケン、ごめん。
キレイなだけがものの価値基準ではない。現に僕は最初の頃よりマエケンが好きだ。
あれ?フォローになってない?
でも差別に耐えて偏見と戦って自分を認めさせようと頑張ってきた美輪さん。
どうして他の人(おすぎとピーコ?)のスタイルを認めることはできないのかと思う。
実に難しい問題。(性別だけではなくていろんな組織、派閥で芸能界は成り立っている。)

お母さんのおなかの中にいる時、最初はみんな女の子なんだけどね。
だからみんな生まれる直前には男でも女でもない姿があった。
自分が男であることが、女であることがどうしても受け入れられない。
そして胸焦がして好きになった人 が自分と同じ「性」を持つ人で
どうしようもない悔しさ、はがゆさを打ち明けられずに終わっていく恋もある。
打ち明けて全てを失うくらいならずっと仲の良いトモダチでいたい。
中村 中(なかむら あたる)さんの歌は彼女の苦しんできた経験が生んだ歌
だけどそれは普通の恋愛でも言える事かもしれないね・・・。
あと一歩踏み出す事で全てを失ってしまいそうな微妙な関係ならば、ずっと今のままでいよう。
そんなギリギリの心のブレーキを利かせながら日々接する辛さの方がマシだと。
↓ 再生 ♪
「Youtube 友達の詩 (中村 中)」
手をつなぐくらいでいい・・・・並んであるくくらいでいい・・・・・
それすら危ういから、大切な人はトモダチぐらいでいい。
なんてネガティブ、なんて後ろ向き、なのにどうしてこんなに美しい曲になるのだろう。
このひとは今までどんなに辛い思いをしてきたんだろう。
どうしてこんなに涙が止まらないんだろう。

やっぱり大切なのは見た目のキレイさだけではなく本当の価値観。

